序:「理解できる」と信じることの傲慢

私たちは、日々の会話の中でこう言う。
「わかるよ」「その気持ち、理解できる」

だが、ほんとうに、他者を理解することなどできるのだろうか?

たとえ同じ経験をしても、感じ方は違う。
同じ言葉を聞いても、心の中で響く意味は異なる。
人は、それぞれ異なる“世界”の中に生きている。

それでも、私たちは「理解したい」と願う。
なぜなら、理解は“安心”をもたらすからだ。
相手を理解できると信じた瞬間、
人は世界をコントロールできるような錯覚を得る。

だが、その安心こそが、
他者を本当の意味で見えなくしているのかもしれない。

「理解すること」はしばしば幻想であり、
むしろ「尊重すること」こそが、他者と共に生きる出発点なのだ。


他者とは、永遠に“異なる存在”である

他者とは、私ではない誰か。
似ているように見えても、決して同じではない。

同じ風景を見ても、同じ記憶を共有しても、
そこに映る世界の色は違う。

私たちは「他人の中に自分を見たい」と思うが、
それは単なる自己投影に過ぎないことが多い。
本当の他者とは、私の鏡ではなく、異質な世界そのものなのだ。

だから、他者を「理解する」とは、
本質的に不可能な試みである。

私たちにできるのは、理解ではなく、
「理解できないまま、隣に座る」こと。

それが、尊重の第一歩だ。


共感がもたらす「支配」

共感という言葉は美しい。
だが、その中には“危うさ”も潜んでいる。

「共感する」という行為は、
相手の心に自分の解釈を差し込むことでもある。

「あなたの気持ちはわかる」と言うとき、
それはしばしば、“自分の経験”で他人を説明しているに過ぎない。

相手の痛みを“自分の痛みの言葉”で語る。
それは優しさのようでいて、
実は、相手の痛みを奪う行為でもある。

真の優しさとは、
「わからない」と言える勇気ではないだろうか。

わからないから、寄り添う。
わからないから、聴き続ける。

共感よりも、尊重。
理解よりも、沈黙。

その静かな距離の中に、
人と人が共に在るための“余白”が生まれる。


「わからないまま」に在るという成熟

現代社会は、「わかること」を価値とする。
分析、説明、納得──
すべてを言語化し、理解しようとする。

だが、人生の本質的な出来事は、
たいてい「わからない」まま訪れる。

愛、死、孤独、運命、信仰──
それらは説明できないからこそ、深いのだ。

他者もまた、そうした“説明できない存在”である。

他人の痛みや喜びを完全に理解することはできない。
しかし、だからこそ、人は他人と共に生きられる。

わからないままに寄り添う。
わからないままに手を差し伸べる。

そこに、人間としての成熟がある。


尊重とは、「距離を保つ」勇気

理解しようとする心は、しばしば“踏み込みすぎる”。
相手の領域に入り込み、
「こう思っているだろう」と決めつけてしまう。

だが、尊重とは、近づかないことではなく、
境界を尊ぶことだ。

相手の沈黙を壊さない。
相手の痛みを奪わない。
相手の世界に勝手に言葉を当てはめない。

理解の手前で立ち止まること。
その距離の中にこそ、思いやりが生まれる。

たとえば、友人が悲しみに沈んでいるとき、
「大丈夫?」と何度も聞くよりも、
ただ隣で静かに座っている方が、
ずっと深い共感になることがある。

それは、言葉ではなく、存在の尊重だ。


「理解する」よりも「受け取る」

理解とは、頭で整理する行為。
受け取るとは、心で感じる行為。

この二つは似ているようで、まったく違う。

理解は、相手を「自分の中に収める」こと。
受け取るは、相手を「自分の外に置いたまま見つめる」こと。

理解は閉じる。
受け取るは開く。

理解しようとすると、人は評価を始める。
「なぜそうしたのか」「どこが間違っているのか」
しかし、受け取るだけなら、そこに評価はない。

ただ「そう感じているんだね」と見つめる。

それは思考の終わりではなく、
心の沈黙の始まりだ。


他者を理解しようとすることの暴力

“善意”であっても、理解の押し付けは暴力になる。
人を「理解したつもり」でいるとき、
私たちは無意識に、
相手を「自分の世界に引きずり込もう」としている。

「あなたのためを思って」
「こうした方が幸せになれる」

その裏には、
「あなたを私の価値観に合わせたい」という欲望が隠れている。

本当に他者を尊重するとは、
相手が“自分のままでいる自由”を認めることだ。

理解するのではなく、
見守る。

助けるのではなく、
信じる。

沈黙の中で他者を信じることほど、
深い愛はない。


「理解できないこと」を美しいと思えるか

人は“わからないもの”を恐れる。
だから、他者を理解できないと不安になる。
だが、わからないからこそ、人は惹かれるのではないだろうか。

他人の中に、理解できない何かがある。
その“謎”があるから、人は出会い続けられる。

完全に理解してしまえば、興味も尽きる。
だが、理解できない部分こそ、
人間を深くしている。

愛とは、理解することではなく、
「理解できないものを受け入れる勇気」だ。


結:「わからないまま、共にいる」

他者を理解しようとすることは、
人間の自然な欲求であり、同時に限界を持った行為だ。

私たちは他人を完全に知ることはできない。
しかし、それでも“共に在る”ことはできる。

共感よりも、尊重を。
理解よりも、沈黙を。

それは冷たい距離ではなく、
相手の世界を侵さない“あたたかい距離”だ。

わからないまま隣に座り、
わからないまま見つめ、
わからないまま祈る。

その沈黙の関係の中でこそ、
人と人は、ほんとうに触れ合う。